11月22日の日記

2006年11月22日
外は、未明から雷を伴う雨降り。

朝、夫や子供達を仕事や学校に送り出してから、雑然とした家の中の整理を始める。
台所回りを綺麗にしただけで、今朝は1時間半もかかってしまった。
食器洗い機に皿を入れている時、誤って手がすべり、皿を3枚床に投げてしまう形になった。
素足で歩きたがる下の娘のせいで、床を綺麗に掃除しなければならないはめに。
余計な仕事になってしまった。
家事という奉仕の仕事は、当に忍耐と我慢の連続だと思う。

昨日は、子供達が学校から帰ってきた後、自分も気を取り直して、上の子の手持ちの
読解問題集の中から短めの文章を探し、主語と述語を探す練習をした。
日本語の文章を、じっくり精読したのはもう何十年ぶりだと思った。
そして、上の子が誤って使う、「れる・られる」の文章について、正しい文章と共に考えてみた。

イタリアの学校だと、そろそろ、動詞の活用や名詞の種類など、文法事項を教え始めている。
しかし、日本語については、文法が始まるのは中学からだったと思う。
思うに、日本語の場合は、ある程度の文章の意味が分かり、読める様になるには、
ひらがな・カタカナなどのアルファベットに加え、漢字が読めていなければならない。
そして、覚えるべき漢字の数が膨大な為、文法は中学から教え始めるのではないかと思う。
日本人学校でも、先生達が強調するのは、「少なくとも漢字の読みだけはしっかり
やっておいて欲しい。」だ。
しかし私が懸念するのは、「たとえ漢字が読めたとしても、文章を読んだ時に
意味がわからない。」という事だ。
本を色々読みなさいとは言われる。が、まだ、そんなレベルに達していない様な気がする。

先はまだまだ長い。。。子供に負わせている苦労も多大であろうとさえ思って悩む。

娘の日本語の誤りが気になって、たまたま日本語文法をちょっと紐解いてみた。
その時、ひらめいた。
日本人が外国語を勉強する時、文法を先にやるではないか。
恐らく、外国人が日本語を勉強する時も、文法を学習するのは効果的ではないだろうか。

何故か。

それは、あまりにもあまりにも、日常生活の中で、母国語以外の外国語に触れる機会が少ない事に起因する。
100回読めば意自ずから解す。。。という訳にはいかない。
生まれた時から、その外国語を毎日耳にしていれば、耳がそれに慣れて使い方も自ずと分かってこよう。しかし、こと、外国語学習に関しては、そんな機会にはなかなか恵まれない。それを補う方法として、自分の使う外国語が正しいのか否か、自ら判断できる方法として、文法学習が優先されるのだろうと。

そう感じた時、昨日の朝は娘の日本語にショックを受けたものの、気を取り直して、根気強く教えていくしかないという気持ちになった。
私しか日本語を子供に教えられる人は身内にいないから、私が諦めればそこまでになる。
本人が分からないで悩んでいる部分を解消するには、早かろうが、文法でも何でも使って本人が分かる様に説明してやればよい。

きっと、自分の英語学習も同じ事なんだろう。
落ち込んだ時は、その理由を考えて、気を取り直して、取り組む以外ないのだろう。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索