中沢新一が語る仕事―1

労働を苦役と思わぬDNA---欧米の価値観とは根本から違う
 私が学生の頃、フランスの人類学者レヴィ=ストロースが来日して、日本人にとって労働とは何かを研究していました。後日、彼の労働論を読んでとても共感しました。「労働」という言葉は西欧では「LABOR」、聖書で「苦役」を意味します。エデンの園で、労働する必要のない状態にいたのに、そこから出て行かざるを得なくなった。罪を犯したために、人間はこの世界で働いて罪を償わなければならなくなった。欧米では仕事に対して償いや罪といった暗い意識がつきまといます。労働はもともと苦役なんです。

 しかしレヴィ=ストロースは、日本においてはまったくそれが感じられないと言うのです。彼は、人形作り、焼き物、塗りなどいろいろな職人に会い話を聞いていますが、誰もが「仕事をすること自体が楽しく、うれしい」と語ることに大きな驚きを感じています。仕事で何かの成果が表れてくるというのは、果物が実るのを見るようなものだから、とみんなが口をそろえる。小さな町工場のおじさんたちまで、そう語ったと。

 その観察は正しいと私は思います。日本人にとっては、農民から職人、町工場の技術屋さんからサラリーマンまで、働くことは一種の自己実現であり、創造なんですね。心の奥底にそういう労働観が存在しています。

 近代になると、目標達成のために懸命に働く産業労働が入ってきたけれど、それでも日本人自身は、欧米人が感じるほど労働が苦役ではない。自分たちのことをワーカホリックなどとは思ってもいないでしょう。

下駄(げた)を彫っても仏を彫る喜び

 近代産業が入ってくる以前の江戸時代では、人々の労働時間は1日4〜5時間ほど。職人たちは自分に与えられたポジションで全力を投入して自分を実現しようとし、そのことがうれしかったから、下駄の職人なら下駄を彫りながら喜びを感じていたのです。

 浄土真宗では深い体験をもった人を妙好人と言いますが、みな労働者でした。下駄職人などが多いのですが、芸術家として仏像を彫るのではなくて、下駄が仏様だと思って心を込めて彫る(笑い)。それが生きる喜びに成り得るわけですね。現代人は、近代の労働観に縛られているところがありますが、でも、根本には古い精神層が生きていて、簡単に消えないと思います。

 日本人はいま、労働観も含めて根本的なものの考えを作り直していかなければならない時期に差し掛かっています。そのためには、日本人の自然な心性に残っている原型に戻ってみなければならないでしょう。近代の労働倫理は日本人の中で変容が始まっていますが、しかし権力に近い人たちは相変わらずの近代価値観にしがみついていて、それが時代錯誤になりつつあることに気づいていない。ニートの若者たちが表明しているものは何か、それに目を凝らす時が来ています。(談)

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全くもって同感。。。

ちなみに、イタ語では、「LAVORO」です。これ、『苦役』っていう意味だったのね。

しかし、『苦役』という認識から逸脱できないのでは、自分の仕事にプライドは
なかなかもてない訳ですわな。

少なくとも、『苦役』という認識から逸脱できている分、日本人は一歩進んでいる
はずなんですけど、ニートが増えている現実はどう説明すれば良いのでしょうか。

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